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それは中学2年生の時でした。

学校のみんなが高校受験を意識し始めたころ、私は帰宅してから毎日読むのを楽しみにしていた本がありました。あるとき母親の仕事先についていき、近くの本屋さんで母を待っていた時に見つけた「お菓子の 基本大図鑑」という分厚い本。後で母がその本を買ってくれたので、嬉しくて嬉しくて、そして何度読んでも楽しくてしょうがない。

お菓子作り自体小学校の頃から好きでいろいろな本を読んでは、試してみてを繰り返していましたが、この本は私にとって衝撃的なほど沢山の知識が詰まっていて、何度同じページを読んでも楽しいくらいでした。

あるとき、本に小さく「監修 大阪あべの辻製菓専門学校」と書いてあるのが気になり始めました。

え?製菓専門学校というものがこの世にあるの?

という驚きを家のパソコンで検索して、本当に夢みたいな学校とパティシエという仕事があるんだということを知りました。それを知ってから、高校に行くことなんて考えることもできません。製菓学校に行きたくて行きたくて仕方がなくなっちゃったんです。

いま勉強したいことが見つかっているのに、どうして遠回りをしなくちゃいけないの?もしもお菓子の勉強を集中的にをしてから、やっぱり高校の勉強が必要が出てきたなら、そのタイミングでしたらいいじゃない。私は齢の違う人たちと学校に通うことになっても全然気にならないんだし。こんな風に私は考えていました。でも、その学校にかかる費用も大変なものだということが調べて分かったので、とりあえずネットから色々な製菓専門学校の体験入学に申し込み、中学校が休みの日は一人で製菓学校を見て歩きました。夜行バスのチケットを取って、大阪のあべの製菓専門学校にも行って学校説明を受けたり、専門学校で出会った先生たちに相談もしました。

「ご両親はどう思ってるの?」

「大反対してます。」

「確かにそういう意見の方が多いよね。」

この会話は耳にタコができるほどに何度も沢山の人と交わしました。両親が反対している分、私が専門学校で出会った先生方や偶然出会った人、会話をするチャンスのある人誰にでも、私が高校に行かないで専門学校に入りたいと考えている話をしたからです。

自分の気持ちを誰にでも話し続けている間に、応援してくれる人達もできました。「好きなことやった方がいいよ。必要な時に使って」といって、お金を渡してくれる人や、とにかくいつでも応援してくれている友達たち、「いつでも相談聞くからね」と言って連絡先をくれた製菓学校の先生。

家ではほぼ一年間、両親に毎日「高校に行かないで専門学校に行きたい」と話しては毎回反対されていました。

願書受付の時期が迫った時には、「話しても反対されるから願書だけでも出したらいいんじゃないかな、合格だったらもう一回いつもと同じ話をしたらいいんだし」

という自分の考えのもと、願書を出すことにしました。

ちなみに私が願書を出した先は、例の本の系列校になっている、一年制の大阪の調理師学校でした。私はお菓子作りが好きだけど、その気持ちを掘り下げると、食べ物全体が好きな自分に気が付いたからでした。それに、食べ物の基本は料理だと思うしそこから派生して嗜好品のお菓子という分野があるのに、お菓子だけをクローズアップして学ぶというのはあまりにも、自分にとってはバランスが悪いような気がしたからです。

結果、合格通知をもらって一番大変だったのは母だったと思います。

それでも母が調理師学校に一年間通えるようにしてくれました。

大阪での寮生活もあっという間に、楽しくて仕方がない学校生活が半年も経つと就職先を探し始め、夏に面接を受けた先から研修の連絡をもらい、クリスマスの四日間にそのお店に研修に行きました。東京都奥沢の素敵なレストランで、一日で身体中が痛くなるほどの忙しさでしたが、知れば知るほど魅力のあるレストランで、そのお店にすっかり魅了されていました。研修最終日、お店のスッタフの方に話しかけられました。

「よかったな、お前たぶん採用」

「なんで?」

「さっきシェフが不採用の電話かけてるの聞こえたから。来年からよろしくな」

その後、シェフから正式に合格通知書を頂き、焦った私はとりあえず、合格をもらったお店に近くの不動産屋さんに電話をかけてみました。

「お嬢さん、何歳ですか」

「16歳です」

驚く電話口のお姉さん

事情を話すといくつかの候補をfaxで送って下さるというのに、大阪の寮にはfaxが無く、東京の実家のfax番号を伝えて資料を送ってもらうこと数分後、びっくりした母から電話がありました。「あんた宛に不動産から資料届いてるけど、これどういうこと??」

本当に私の母は大変なことだらけだったと思います。私が自由人過ぎて。

最終的に、私は専門学校を首席で卒業することができ、専門学校卒業後は就職して一人暮らしをして、両親の扶養から外れて全ての支払いを自分のお給料でこなすということを決めました。毎日がどきどきしてわくわくしていました。楽しくて仕方がなくて。

結局高校の勉強も、あるとき気になって働きながら勉強してみたら、一年の独学で高卒認定をとることができました。

レストランから始まり、パティスリーや色々なお店で働きました。

自分の理想のお店を探し続けた旅のような時間だった。

パティシエは、体力がないとできない仕事だと思います。

朝早くに始まり夜遅くに終わる仕事で、冷凍庫部屋での作業は寒く、オーブン作業は暑く、力仕事も沢山あり、体を壊して辞めていく人も沢山います。わたしもホルモンバランス障害で体調おかしくなり、救急車を4回くらい呼びました。どれだけ働いてもお給料は低い仕事ということもあり、やっぱり続けるのは大変な仕事です。

でも私はこの仕事と出会って本当に良かったと思う。

自分の好きなことを仕事として生きていけることは、本当に幸せです。




「最後の質問ですが、今回開業の動機は?」

個人事業主用銀行口座を作りに向かった窓口で、担当の銀行員さんからの問いかけ。

色々な思いが交錯するけどなんて答えたらよいのか..

「勤めていた会社が、コロナの影響で書類上閉業になったからです。」

驚いた顔の担当者。

「かしこまりました。手続きはこれで終了なのでまた後日ご連絡いたします。」


コロナが流行し始めたころ、私はパティシエとしてある会社に勤めていましたが、だんだん仕事の量が減り、勤務日数が減り、お給料も減り、長い休業状態に入りました。

借りている住まいの家賃は払えなくなるから、荷物はすべてレンタル倉庫に預けて、最低限の製菓道具と衣類だけを持って実家に引っ越し。

実家の近所を歩いてみると、開いているのかいないのか、よくわからないけど素敵なカフェの存在が気になり始めました。

偶然そのカフェのオーナーと以前会ったことがあることを思い出し、連絡を取り、その場所を間借りさせて頂く形で私がカフェを始めたことが、自分でお店を始めることのはじまりでした。

カフェを間借りさせて下さった方の宣伝力もあり、始めて間もなくあっという間にリピートして下さるお客様も付き、気がつけば勤めている会社も営業再開し、会社と自分のカフェ営業とで充実した時間を過ごしていました。

社長からの会社閉業の通知は、とても丁寧な口調であっという間のお話でした。もしかしてそんなこともあるのかもしれないな…と思っていたことでも、実際に起こると啞然とします。お客さんでいる時から好きで好きで、憧れて入った職場だったので、ショックでしたが、自分のお店を持つことも、製菓業界に入った時からの夢だったので、このタイミングで自分で頑張ろうと決めました。

あらゆる事が突然で、計画性もなくその場その場の判断が求められ、新しいことを始めるにはあまりにもお金がなさ過ぎて、なのに自分のカフェ営業で毎月メニュー替えをするために寝る間を惜しんで試作をしていた時期。目が回るほどに忙く、新たに学ぶことも沢山ありました。現在も相変わらず同じ状況ですが。

初めて間借りさせていただいた場所はその後、他の方が管理されることになったために利用できなくなり、私はお客様やカフェ営業を通して出会った友人に助けられて、また新しい間借のキッチンと出会いました。そして沢山のご縁を頂いて、自分のお菓子工房を持つことができました。

お菓子工房はお菓子を作ることに特化した場所なので、現在は工房でお菓子を制作して卸をしたり、間借のキッチンでカフェ営業をしたりしています。自分のお菓子工房がなかった時には間借のキッチンでお菓子を作るために、粉や砂糖、お酒類など、車がないので全て自転車に乗せて運び、何度も自転車のカゴやスタンドを壊して、カフェ営業当日も、仕込みの時間が限られているので心臓をドキドキさせて仕込みをしていました。自分の工房があるというのは本当にありがたい。

お店のためにとはいえ借金をすることには抵抗があるので、本当はお店を持ちたかったけど今の状況に落ち着きました。これからの目標は2-3年後には必ず飲食スペースのある店舗を借りられるようになること。


とても大まかにお話ししましたが、「手作りの店HANNAH」の始まりのお話です。